研究日和

とある大学で研究している大学院生です。日々の研究の話、読んだ本の話などをつらつらと書いています。

【シリーズ】ジャック・ランシエール(1)労働者であり哲学者であれ――『プロレタリアの夜』

今回はランシエールシリーズの第1回です。

 

取り上げる著作は『プロレタリアの夜』です。

 

とはいえ、この本はまだ日本語に訳されていません。

 

なので私もフランス語原典を少し読んだり、英語の翻訳で読んだりしただけなので、今回は軽い紹介になると思います。

 

 

この本は、19世紀の「平民哲学者」であるゴニという人物を研究した著作です。

 

表題にもありますが、プロレタリアというのは労働者のことで、この本のテーマは労働者が昼間ではなく夜に何をしていたかということが主題です。

 

この著作の中に、「労働者であり哲学者であれ」という文章が出てくるのですが、これはまさに「昼間は労働者であり夜は哲学者であれ」といった意味で理解することができます。

 

主張はいたって分かりやすく、たとえ昼間は労働者であっても、ひとは時間を作り、夜には哲学することができるし、詩を作ることもできるということです。

 

哲学や詩作は決してブルジョワのためのものではなく、労働者にも開かれたものだ。

 

ここには、続いてのランシエールの著作『無知な教師』における、「知性の平等」という概念の背景をなす議論が顔をのぞかせていますね。

 

早くこの本が日本語訳されるのを願うばかりです。

 

 

今でいうところの「在野の哲学者」は、時代や国に関係なく、いたるところにいるわけです。

 

今自分が置かれている状況に限界を感じ、生まれた階級に縛り付けられた生き方に苦しんでいるひとでも、哲学をし、詩を作り、労働者と哲学者の二つを両立することができるのだ。

 

この本の主張は現代でも響くものだと思います。

 

自分に限界を作らず、新しいことにチャレンジすること。

 

それを「自分には無理だ」と決めつけないこと。

 

実はその限界は社会の構造のせいで、自分とは関係ない理由で作られているのかもしれないと疑うこと。

 

これは大事な心構えだと思います。

 

 

ただ、少し気を付けたいのは、これはフランス社会学のいわゆる「再生産理論」のことを意味していないということです。

 

再生産理論は、例えばピエール・ブルデューが論じたものですが、要するに貧困家庭に生まれた子供も貧困になり、富裕家庭に生まれた子供は富裕層になるという、そういう意味での「再生産」が行われるという社会学的な議論です。

 

ランシエールは、『哲学者とその貧者たち』という本の中で、そういった議論をしているブルデューを批判しています。

 

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 なぜなら、そうして「貧困/富裕」を前提に議論していること自体に、すでに問題があるからです。

 

再生産理論の論者たちは、そうした階級差があることを前提にしている。だから結局のところ「平等」は現実にならない。不平等を前提にした議論は、イデオロギーにはなりうるが、現状を観察しているだけではだめだというロジックです。

 

こうした「平等」に関する考え方は、その後のランシエールの思想を貫く重要な要素だと私は考えています。しばしばこの点を突っ込まれ、平等を重視するあまり「自由」が見落とされているとも批判される彼ですが、しかしそうだからといって平等の議論が否定されるわけではないでしょう。何と言っても希望があるように思います。

 

 

さて、今回は最初期のランシエールの議論を紹介しました。

 

この流れでいうと、次に取り上げるべきは『無知な教師』ということになるでしょう。

 

すでに教育哲学の分野ではかなり注目されているこの本、実は『プロレタリアの夜』や『哲学者とその貧者たち』との関連で読まれるべき本だと思います。

 

それでは次回をお楽しみに。