研究と人間関係
意外に思われるかもしれませんが、研究において人間関係は重要な要素です。
これにはポジティブな意味とネガティブな意味があるので、順番に説明します。
① ポジティブな意味
研究において人間関係がポジティブな意味で重要なのは、やはり自分一人では不可能なことを、共同でやることで可能にすること、これに尽きるのではないかと思います。
実際、ひとが一人で研究できることというのは有限です。
時間もないし、手間もかかるのが研究なので。
例えば、あるひとはハイデガーの哲学を、別の人はパトナムの哲学を、また別の人はラカンの精神分析を研究しているとしましょう。
それぞれが対象にしている人物は、それぞれ独特の、しかも難解な思想を残した人物であり、全著作を精読するだけでも一生かかってしまうようなひとたちです。
それが、この3人が集まれば、例えばハイデガーとパトナム、パトナムとラカン、ラカンとハイデガーといった組み合わせや、存在論と分析哲学、分析哲学と精神分析、精神分析と存在論といったような、分野横断的な研究が可能となるかもしれません。
このように、自分がどんな研究者とつながっているか、そしてつながるべきか、ということが、人間関係として重要なのです。
② ネガティブな意味
しかし、そうはいっても人間関係には悪い意味もあります。
それが顕著なのは、研究室の人間関係です。
私はいまも院生ですから、研究室には数名の院生が在籍しています。
なかには良好な関係の院生もいますが、なかには関係がよろしくない方もいます。
私は基本的にハラスメントをしてきたり、自分の業績を陰に陽に自慢して満足しているような人間が苦手ですし、そういうひととは絡まないようにしているのですが、しかし研究室が同じでは嫌でも視界に入ってくるものです。
そしてそういう人物は、口も悪いし声も大きい。
自分を誇示することでしか存在意義を見出せないのかな、と哀れに思ってしまいます。
そしてさらに悪質なのは、そういう人物のせいで研究室の雰囲気が悪くなってしまうこと。
ハラスメントの効果として、面と向かって罵倒をせずとも、そうした雰囲気によって研究室にいづらくなったり、心を病んでしまうひとが出てしまうというものがあります。
だいたいハラッサ―の言い分としては、「そんな簡単に心を病むのは自分の責任だ」ということになるのですが、そもそもあなたがいなければそんな問題は起こらなかったのでは?と疑問に思ったりもします。
私はとにかくそういう人にはできるだけ近づかない、話もしないということを徹底していますが、もちろん自分の業績が論文として発表されれば報告しますし、決して「悪い」関係にはならないよう、微妙な距離を保つようにしています。
(ちなみにそういう人物は私に業績の成果物を報告したりしません。他の院生には誇示していますが、どうやら私のことは目の敵にしているようです。まあ、私は彼らのような振る舞いはしたくありませんので、きちんと業績は報告しています)
これは結局どの世界、どんな仕事場でもそうだと思うのですが、人間関係には良い面悪い面の両方があり、まあバランスを見てやり過ごしていくのがよさそうです。
今回は自分のメンタルのためにも、研究における人間関係の二面性を考えてみました。
意外と研究者・院生にも、普通に人間関係で悩んだりすることもあるんだということが伝われば幸いです。
それでは。