本を買い続けることの意味
こんにちは。
本を買うことの意味って何でしょう?
私は研究者の端くれとして、少ない収入のなか、毎月1万円~2万円ほどは書籍を購入するようにしています。
そりゃ、この業界にいれば知識=仕事道具ですから、本を買って読むのはほぼイコールで仕事なんですよね。
ちなみに11月に買った本は、オックスフォード大学出版から出ているクラシカル・テクストシリーズの、アリストテレス『自然学』と『デ・アニマ』(これはギリシア語の原典です)、それと『ハイデガー=レーヴィット往復書簡』を購入しました。
まあ、こういう本は研究にも使う本なので、先行投資という意味で自腹を切る必要があるものです。
また、別に買わなくても目だけは通したいという本は図書館で借り、研究に使うであろう重要な本は購入するというのが私の書籍購入の線引きです。
たぶん、そのうち全集ばかり揃えて単行本は研究対象のものしか買わなくなると思うんですよね。ちなみにいま欲しいのは、木村素衞著作集、戸坂潤全集、あとはプラトンとアリストテレスのクラシカル・テクストですかね。
そうなると研究費として出費している額もばかになりません。ああ、一年に20万円でいいから研究費が欲しい…。
それだけお金がなくても本を買い続けるのは、それが先行投資になるからです。
知識は何事にも代えられません。本を買ってお金が無くなったら飯を抜けばいいだけです。
それだけ、文字通り「死ぬ気で」勉強し読書し知識を持つことが、研究の世界でやっていくためには必要なのですが、最近はあまりそういう気概のある院生も少なくなったような気がします。自分の研究対象ばかり読んでいて、「ゴキブリ亭主」みたいに…
研究者はどこかオタク気質があるので、本来なら「あれもこれも」と知識を揃えていきたい人種のはずなのですが、「あれかこれか」で特定の対象しか読まないという院生もいますよ。
そんなに食わず嫌いしていたら「博学」なんて遠い目標だと思うのですが、そういう人は気にせず、あくまで自分が関わっていることにだけ詳しくなればいいという発想のようです。
まあ、そういう人がどれほどのレベルの人になるかというのは、後々で差が出てきたときにわかるのですが。(ちなみにこれは院生だけでなく中堅の研究者にも言えるような気がします。自分が知っていることだけで満足して、既有の知識だけで自己正当化するような人も少なくありません。)
そうならないためにも、本を買い続け、読み続け、常に知識を吸収する必要があるのです。
ああ!また愚痴っぽくなってしまった…
そろそろ生産的なブログも書いていきますね、本の感想とか…
それではまた。