研究日和

とある大学で研究している大学院生です。日々の研究の話、読んだ本の話などをつらつらと書いています。

ポピュリズム論の二面性、あるいは政治と芸術の緊張関係について――シャンタル・ムフ『左派ポピュリズムのために』

こんにちは。

 

今回は昨今話題のポピュリズムについて、現代政治思想の重要人物の一人、シャンタル・ムフの『左派ポピュリズムのために』を紹介します。

 

ムフといえば、パートナーのエルンスト・ラクラウとの共著『民主主義の革命』(原題はHegemony and Socialist Strategy で、直訳すれば『ヘゲモニー社会主義戦略』といったところです)によって広く知られる政治哲学者です。

 

彼女の思想は「闘技民主主義」と呼ばれていて、なにやら不穏な予感がしますが…

 

というのも、従来の政治哲学といえば、理性的な対話や討議によって、ある一定の合意(コンセンサス)を得ることが政治の役割であるといったような、いわゆる「熟議民主主義」という立場がほとんどでした。

 

代表的なところでは、ユルゲン・ハーバーマスがそれに近いところにいます。

 

ところがムフによると、熟議民主主義では見落とされるものがある。それが政治における「情念」の役割である。

 

結構、「熟議vs.闘技」「理性vs.情念」という図式は分かりやすいし便利なのですが、まあこのあたりの文献を読んでいくと、そう簡単に割り切れるものではないような気がしますね。でも今回はそれはおきます。

 

そんなムフですが、本書では「左派ポピュリズム」というものに焦点を当てています。

 

ポピュリズムというテーマはラクラウがずっと取り組んでいたもので、だから彼女がそれについての本を出すこと自体は必然だったのでしょう。

 

この本の解説に、きわめて明瞭に左派ポピュリズムとは何かが説明されています。

 

「左派ポピュリズムとは、新自由主義的なヘゲモニー編成のなかで、制度からこぼれ落ち、あるいは資本によるむき出しの暴力によって傷つけられた人々――いまや社会の圧倒的多数があてはまるだろう――が、制度外の闘争から制度内へと政治的介入を行う戦略なのだ。この介入がめざすのは、権力の掌握ではない。そうではなく、国家の政治的、社会―経済的役割の回復と深化、そしてそれらを実現するための民主的な国家運営こそが重要なのだ。」(139頁)

 

とはいってもよくわからん!とも感じるので、少し補ってみたいと思います。

 

まず「新自由主義的なヘゲモニー編成」というやつですが、まずはラクラウとムフの共著『民主主義の革命』の話から始めましょう。

 

『民主主義の革命』は、原著が1985年に出版されたのですが、これが執筆された背景について、ムフは『左派ポピュリズムのために』のなかで次のように述べています。

 

「『民主主義の革命』は、ケインズ主義的福祉国家をめぐり、労働党と保守党による戦後コンセンサスが危機に陥るなか、ロンドンで執筆された。そして、私たちが左派政治の未来についての省察を発展させたのは、おもにこのイギリスのコンテクストにおいてであった。」(42頁)

 

1985年のイギリスでピンと来る方もいると思うのですが、ここではまさに「サッチャリズム」と呼ばれる、サッチャーによる新自由主義的な政策が念頭にあります。

 

ラクラウとムフはこうしたイギリスの新自由主義的な政策を背景に、それに対抗するために『民主主義の革命』を執筆したわけです。

 

この問題意識は、それから30年経ったムフにとっては、「左派」の戦略をいかに構築するか、という問題意識につながっており、それが左派ポピュリズムという概念に展開したわけです。

 

まあ簡単にいえば、経済領域の主義(資本主義)の論理からはどうしても排除されてしまう人々、具体的にいえば、生活保護世帯、ホームレス、難民、移民、その他、多くの社会から排除された人々が、互いの差異を保持しつつも政治的に連帯する可能性を、ムフは「左派ポピュリズム」という概念に託しているわけです。

 

でも、生活保護世帯とホームレスとでは、位相が違っていて、一見すると連帯の可能性はないように見えるかもしれません。

 

しかしムフが重視しているのは、そうした「差異の論理」は保持しつつ、それらが「等価性の論理」によって節合される可能性です。

 

例えば、生活保護世帯とホームレスとは、一見異なった存在ですが、しかし「経済的に苦しい」「生活がままならない」という要求から、「経済的な格差」が問題であるという意識へ発展し、それが経済資本の「平等」という共通の指標(シニフィアンと呼ばれます)を見出すことができれば、それを中心にして、生活保護世帯とホームレスとは連帯することができるというロジックです。

 

ここで注意しなければならないのは、こうした連帯はあくまで「等価性」を重視する立場であって、差異を抹消し「同一性」を重視する立場ではないという点です。

 

互いに違うところがありつつも、等価性を中心に連帯すること。これが左派ポピュリズムの戦略です。

 

しかしそれはいかにして可能でしょうか?

 

その際に鍵となるのが、言葉・感情・行為です。

 

「「言説的実践」とは、発話と書き言葉にのみかかわる実践を意味しているのではない。「言説的実践」とは、そこにおいて意味作用と行為を、言語的要因と情動的要因を区別することができない、そうした意味づけの実践を指しているのだ。言葉、感情、そして行為をともなう言説的/情動的な意味づけの実践のなかではじめて、社会的行為者は主体性の形式を獲得するのである。」(99頁)

 

私たちが左派ポピュリズムのもとで連帯し実践する際には、言葉、感情、行為をともなう言説的・情動的な意味づけの実践が重要である、とムフは述べています。

 

ここが「闘技民主主義」のムフの本領というところですが、このように情念を重視する立場は、従来の理性を重視する政治哲学の立場からは一線を画するものです。

 

そしてムフは、このように情念に訴えかける政治の可能性を、「芸術」に見ています。

 

「「常識」をある言説的接合の結果とみることで、対抗ヘゲモニー的な介入が「常識」をどれほど変容させるのかを理解できる。私は『闘技学』のなかで、ヘゲモニー闘争においては、芸術的かつ文化的な実践がいかに重要な役割を果たすのかを強調した。そして、もし芸術的な実践が、主体性の新しい形式を構成するにあたり決定的な役割を果たすことができるとすれば、それは、感情的な反応を引き起こす様々な資源を使いながら、情動的な次元で人間をつかまえることができるからである。」(103-104頁)

 

言われてみれば、「芸術」というのは「常識」を打ち砕いて、何か新しい物の見方を提示してくれるような気がしますね。

 

ムフは芸術にこそ、人間の感情や情念に訴えかけ、人々を主体化する可能性を見ているのです。

 

 

もちろんこれまでも「政治と芸術」というテーマ自体は、ヴァルター・ベンヤミンの「政治の美学化」「美学の政治化」という概念に端を発し、様々に論じられてきました。

(例えば田中純『政治の美学』はこのテーマを扱った良書です)

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ナチスが大衆を動員するために映画を用いた宣伝活動をしていたことは、政治と美学、政治と芸術の問題の複雑さを示しています。

 

その観点から見ると、ムフの「芸術」への期待は、ポピュリズム論が抱える二面性を象徴しているように思えます。

 

ポピュリズムはやはり、一方では左派のロジックになりますが、他方では容易に右派のロジックに変容し、排外主義などを招きかねないという二面性ですね。

 

もちろんムフもこの問題を考慮していると思うのですが、『左派ポピュリズムのために』のなかで納得のいく議論は見つけられませんでした。

 

まだご存命の思想家ですので、これからの出版物・発言に注視すべき人物ではないでしょうか。

 

 

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それではまた。