他者たちと共に、街角で結集する諸身体――ジュディス・バトラー『アセンブリ』
昨年、といっても、およそ2年前に日本語訳が出版された、ジュディス・バトラーの『アセンブリ』ですが、その原著は2015年に出版されました。
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なんとほぼ同時期に、ネグリ=ハートという政治思想の分野では有名な二人が、『アセンブリ』という同じタイトルの本を出版したことでも話題になりました。
アセンブリとは、「集会」といったような意味ですが、翻訳者も注を付けているように、assemblageはもともとジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリのagencement(動的編成)の英語訳です。
つまり、アセンブリという語には、動的に編成する集会といったような意味合いが込められています。
著者のジュディス・バトラーは、『ジェンダー・トラブル』という本で有名になったジェンダー研究者であり、自身もレズビアンであることを公言しているフェミニストでもあります。
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そんな彼女ですが、近年では倫理や政治に関する著作を発表しており、『アセンブリ』もそうした文脈で書かれたものです。
バトラーが本書で注目するアセンブリ=集会は、のちに「アラブの春」「エジプト革命」とも呼ばれる、2010年にタハリール広場ではじまったデモに代表されます。
実際、この運動の分析のために本書が書かれたといっても過言ではありません。
『アセンブリ』の序論は次のように始まります。
「二〇一〇年冬の数カ月にわたって、多くの人々がタハリール広場に姿を現して以来、学者やアクティヴィストらは、民衆集会の形式とその効果に新たな関心を抱くようになった。その問題は、古くからあると同時に、時宜に適ったものでもある。」(6頁)
バトラーの問題関心は、こうした集会の形式と効果について考察することであり、更に言うならば、それを「身体 body」の観点から考えるというものでした。
こうした身体に関する議論が顕著になるのが、本書の第3章で展開されるレヴィナスに対する解釈です。
レヴィナスといえば、「顔」という概念を用いて倫理思想を展開した哲学者ですから、必然的に身体と倫理の関係性を考察することに帰着します。
とはいえバトラーは、レヴィナスがやや宗教的な共同体主義を前提に倫理を考えていることに反論し、ローカルな共同性ではなく、グローバルな倫理の在り方を考えようとします。
「彼[レヴィナス]の失敗は、私たちの直接的所属の領域を超えているが、それにもかかわらず私たちが所属している人々・・・へと倫理的に応答することを求める彼の定式化とまったく矛盾している」(142頁)
「私はここでレヴィナスから距離を取る。というのも、私は倫理的思考に向けた自己保存の本源性への反論には賛同するが、他者の生、他者のあらゆる生、私自身のある種の結び付き――つまり、国民的、コミュニタリアン的帰属には還元できないものを強く主張したいからである」(143頁)
バトラーの基本的な主張は、そうしたグローバルな他者との結びつきを考えることにあるので、国民的な、共同体主義的な「帰属」に還元されない結びつきを考えるべきだというものです(これがのちに「もう一つのユダヤ性」と呼ばれることからも分かるように、ユダヤ思想を念頭に置いた議論でもあります)。
おそらく、こうした他者の問題、あるいはこうした他者たちと連帯するために求められたのが、身体の次元なのでしょう。
よく考えると、地球上の人々は、言語も文化も違う国に住んでいますが、それでもなお共通しているのが「身体」をもっているということでしょう。
身体を基盤に置いた連帯の可能性。
これこそ、バトラーがアセンブリを可能にするものと考えていたものでしょう。
人々が集会を行い、身体を結集させる「行為化」は、次のように語られます。
「「現れ」は、可視的現前、語られた言葉を指し示しうるが、またネットワーク化された代表や沈黙をも指し示す。さらに、私たちはそうした行為を、唯一の種類の行為、あるいは唯一の種類の主張への厳格な一致を必要としない仕方で収束的目的を行為化し、全体として唯一の種類の主体を構成しないような諸身体の複数性を想定することで、複数的行動として考えることができなければならない。」(213頁)
ここで注意したいのが、身体は行為を支える「諸身体」、つまり複数の身体であるということです。
この身体は、ア・プリオリな統一性に還元される個体ではなく、バラバラの主張を、バラバラのままで、それでもなお身体を結集させるという仕方で「アセンブリする」身体なのです。
簡単に言えば、それは街頭に集まり、それぞれ別々の主張を行いながら、それでもなお共に行進するデモのような在り方でしょう。
ひとつの主張には決して還元されない、一人一人の要求・主張・意見を、バラバラのままで結集させること。
これはおそらく現代のポピュリズムの一つの形を意味しているのではないかと思うのですが、ポピュリズムについてはおいおい記事を書きたいと思います。
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今回はジュディス・バトラーの『アセンブリ』を紹介しました。
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この勢いで、例えばエルネスト・ラクラウの『ポピュリズムの理性』も解説できればいいなと思います。
ちなみに、シャンタル・ムフの『左派ポピュリズムのために』についてはすでに記事を書いていますので、ぜひ参照してください。
それでは。
フーコー『言葉と物』新装版に思うこと
フーコーの『言葉と物』という著作をご存じでしょうか。
原著は1966年にフランス語で出版されたLes mot et les choseというタイトルなのですが、日本語訳では1974年に新潮社から出版されました。
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もう45年も前の翻訳ですから、訳文が正確かどうか、最新の研究を踏まえた翻訳にすべきではないかなど、様々な意見が飛び交っています。
そんな『言葉と物』ですが、このたび新装版が出版されるそうです。
新装版というのは、新訳というわけではないので、強いて言えば新たな解説文が付録として加わったりするだけなので、このことに対しても賛否両論あります。
私としては、フーコーの主著と呼んでもいいほどの『言葉と物』ならば、せめて文庫として出版しなおすべきだと思いますね。
もちろん版権だとか、諸々の事情で難しいのでしょうが、とにかく廉価版で世に出ないことには、お金のない学生にはとてもとても、購入できた代物ではありません。
しかしこの本それ自体は、私はフーコーの主著だと思っていますし、人文科学を研究する上では必読書だと思っています。
とりわけ第9章および第10章で登場する「人間の終焉」に関する議論は、現代の人文科学の意味を考える上で欠かせませんし、これを読むことで私も、人文科学を研究することの意味というものを改めて考え直しました。
そんな哲学史上まれにみる重要書が、箱入りのハードカバーで5000円で売られているのは、どう考えても学術界にとっては不合理的です。
私の希望は、ぜひ岩波文庫、あるいはちくま学芸文庫に入れるべきだと思います。
もともとちくま学芸文庫には、フーコーコレクションも入っているのでなんで主著は文庫化しないんだ!と憤っていました。
せめて新潮文庫でもいいから、手に取りやすい廉価な文庫になってほしい…。
そんなかなわぬ希望を願っております。
今日はここまで。それでは。
研究と人間関係
意外に思われるかもしれませんが、研究において人間関係は重要な要素です。
これにはポジティブな意味とネガティブな意味があるので、順番に説明します。
① ポジティブな意味
研究において人間関係がポジティブな意味で重要なのは、やはり自分一人では不可能なことを、共同でやることで可能にすること、これに尽きるのではないかと思います。
実際、ひとが一人で研究できることというのは有限です。
時間もないし、手間もかかるのが研究なので。
例えば、あるひとはハイデガーの哲学を、別の人はパトナムの哲学を、また別の人はラカンの精神分析を研究しているとしましょう。
それぞれが対象にしている人物は、それぞれ独特の、しかも難解な思想を残した人物であり、全著作を精読するだけでも一生かかってしまうようなひとたちです。
それが、この3人が集まれば、例えばハイデガーとパトナム、パトナムとラカン、ラカンとハイデガーといった組み合わせや、存在論と分析哲学、分析哲学と精神分析、精神分析と存在論といったような、分野横断的な研究が可能となるかもしれません。
このように、自分がどんな研究者とつながっているか、そしてつながるべきか、ということが、人間関係として重要なのです。
② ネガティブな意味
しかし、そうはいっても人間関係には悪い意味もあります。
それが顕著なのは、研究室の人間関係です。
私はいまも院生ですから、研究室には数名の院生が在籍しています。
なかには良好な関係の院生もいますが、なかには関係がよろしくない方もいます。
私は基本的にハラスメントをしてきたり、自分の業績を陰に陽に自慢して満足しているような人間が苦手ですし、そういうひととは絡まないようにしているのですが、しかし研究室が同じでは嫌でも視界に入ってくるものです。
そしてそういう人物は、口も悪いし声も大きい。
自分を誇示することでしか存在意義を見出せないのかな、と哀れに思ってしまいます。
そしてさらに悪質なのは、そういう人物のせいで研究室の雰囲気が悪くなってしまうこと。
ハラスメントの効果として、面と向かって罵倒をせずとも、そうした雰囲気によって研究室にいづらくなったり、心を病んでしまうひとが出てしまうというものがあります。
だいたいハラッサ―の言い分としては、「そんな簡単に心を病むのは自分の責任だ」ということになるのですが、そもそもあなたがいなければそんな問題は起こらなかったのでは?と疑問に思ったりもします。
私はとにかくそういう人にはできるだけ近づかない、話もしないということを徹底していますが、もちろん自分の業績が論文として発表されれば報告しますし、決して「悪い」関係にはならないよう、微妙な距離を保つようにしています。
(ちなみにそういう人物は私に業績の成果物を報告したりしません。他の院生には誇示していますが、どうやら私のことは目の敵にしているようです。まあ、私は彼らのような振る舞いはしたくありませんので、きちんと業績は報告しています)
これは結局どの世界、どんな仕事場でもそうだと思うのですが、人間関係には良い面悪い面の両方があり、まあバランスを見てやり過ごしていくのがよさそうです。
今回は自分のメンタルのためにも、研究における人間関係の二面性を考えてみました。
意外と研究者・院生にも、普通に人間関係で悩んだりすることもあるんだということが伝われば幸いです。
それでは。
読書には3種類ある
こんにちは。
今日は、「読書には3種類ある」ということについて書きたいと思います。
くれぐれも、これは文系の大学院生が考える読書のタイプ分けなので、一般的ではないことをご了承ください。笑
私は、本を読むことには3つのタイプがあると考えています。
① 速読
② 通読
③ 精読
です。
①速読は、いわずもがなですが、とにかく速く目を通す読書のことを言います。
このモードは、はっきり言うと読んでいるわけではなく、文字通り「目を通す」モードです。
なので、時間にすると、新書レベルであれば10分、単行本であれば30分で通読するというイメージでしょうか。
このモードは、基本的には情報収集なので、この本はざっくりこんなことがテーマで、何を対象にしたものなのか、を理解する程度のものです。
まずはじめに、目次に目を通します。
その時点で興味の湧きそうな章があれば、そこだけ通読すればよいのです。
目次を見たら、次に参考文献一覧に目を通します。
まあそれくらいすれば、その本がどんな文脈で何を論じた本なのか、くらいの情報は収集できるわけです。
そしてよほど興味がわくようなら、「はじめに」と「おわりに」を読む。
そこまでして「この本は読むべきだ」と判断すれば、②の通読に入ります。
もしこの段階まででピンと来なければ、それはまだあなたが読むべき本ではないということです。
さて、②通読ですが、これは1冊をしっかり読んでいくモードです。
研究書のほかにも、小説は通読モードで読むべきでしょう。
これは1行ずつ、しっかり読んでいく読書法です。
私はこのモードの時は、右手に赤鉛筆を持ち、近くには付箋を置いておきます。
気になるところには線を引いたりメモを書いたりして、さらにこれは重要だという箇所には付箋を貼っていきます。
まあこれは研究対象の本ではなく、勉強するための読書ともいえるでしょう。
あるいは、研究対象ではない哲学書を読むときのモードとも言えます。
③精読とは違って、論理を追っていけばいいだけなのと、要は「この本ではどんな論理で何が語られているのか」を把握したいだけなので、精読レベルの読書法ではありません。
そして③精読は、研究対象の文献を読むときのモードです。
たとえるなら、ドイツ語の分厚い哲学書を、一文一文訳しながら読み進めて、1日かけて3ページ進めば上出来、という読書法です。
精読は研究者の読書法なので、一般には「そんな読み方するの!?」と思われるかもしれませんが、文系の研究ではこれが普通です。
たとえば大学院の演習であれば、1回の購読で1ページ進まないということは普通です。
なぜなら、外国語の文章を日本語に訳すときのズレに突っ込みを入れ、書かれている内容を理解するためにああでもないこうでもないと参加者で検討しているうちに1時間2時間経ってしまうからです。
そんな無駄な時間を過ごしているのか!と思われるのも仕方ありませんが、しかし、そういう読み方をしなければ哲学書を理解することなど不可能ですし、何よりもそうした長い時間をかけた結果、自分でもそのレベルの思考ができるようになること、これが重要なのです。
まあ、適当に読み流すような読書をしていては、深い思索などできるはずがありません。
単語の一つ一つ、表現の一つ一つ、文法の一つ一つを、ひたすらこだわって精密に読むこと。
これが文系研究者の精読であり、そうした読み方を身につけて思索を深めることができることこそ、「専門性」なのです。
こうした実情も知らずに「文系不要論」などが出てしまうのは、当事者として本当に悲しい限りです。
この記事で少しでも世に広まれば…と影ながら思っています。
今日はこのあたりで。
大学院入試の対策について
こんにちは。
今日は大学院の入試について書きたいと思います。
みなさんご想像の通り、大学の入試と大学院のそれはまったく違います。
大学入試ではお馴染みのセンター試験や二次試験のように、国語・数学・英語・社会・・・といった教科の試験は、大学院入試にはありません(語学は除く)。
これはあくまで、文系(哲学系)の大学院入試に限る話ですが、私は院試の際、受験したのは英語と専門分野の筆記試験、そして二次試験としての面接でした。
私は正確に言うと、社会科学系の研究科の中では哲学思想系の研究をするコースに入りましたので、一応くくりとしては社会科学になります。
なので、文学研究科のようにゴリゴリの語学(英語のほかにドイツ語やフランス語を課す試験)は勉強せずに済みました。
(結局入学してから、独仏羅希は基本文法がわかる程度には勉強したのですが…)
さて、その英語の試験ですが、これも単語の意味やら発音の問題やら、そんなセンター試験のような問題ではありません。
院試の英語試験は、長文の全訳、これです。
私の場合は、たしか2時間で3つの長文の中から2つを選んで訳せ、という問題だったと思います。一問の分量はA4用紙で1ページくらいでしょうか。
まあ、研究の道に進もうというひとであれば、学部生の時点から英語論文を読んでいることは前提ですし、入学後にはいやおうなく英語文献を読むのですから、解けて当然というものでしょう。
なので、院試の英語対策は、実のところ「毎日一本でも英語論文を読むこと」あるいは「毎日少しでも英語論文を翻訳すること」です。
これは例えば、卒業論文で使えるであろう英語論文を読むついでに翻訳まで作ってしまうというノリで、どんどん読んでいけば間違いなく院試合格レベルの語学力がつくものです。
翻訳する際には、英単語の正しい意味、文法の正しい取り方、そして英語を日本語に訳す際の難しさを体験することになるのですが、それに真摯に取り組むことさえできれば、院試レベルの英語など簡単に翻訳することができます。
さて、院試にはもう一つ受験するものがあります。
「専門分野の試験」です。
この対策としては、大きく2つの段階が考えられます。
まず、第一にその分野の教科書を読むこと。
第二に、その分野のより専門的な文献を読むこと。
第一の点は言わずもがなでしょう。
例えば有斐閣アルマという出版社から出ている教科書的なシリーズは、かなり細かい区分があり、必ず受験する分野のものが出ているはずです。
有斐閣以外にも、その分野の教科書となるものは必ず出ているはずなので、まずはそれらを集めて片っ端から読み、基本的な知識をつけること。
いうなれば、その分野の大雑把な地図を描くことです。
教科書は少なくても3冊は読み込みましょう。
著者によって考え方が異なるため、教科書は多ければ多いほどよいです。
さてこの段階が終われば、第二段階としてさらに専門的な文献を読む段階になります。
もっとも分かりやすいのは、自分が受験する大学に属している先生が書いた著作や論文を読むことです。
しかも、できるだけ「最近の関心」が何にあるのか、という点に焦点を絞ることが重要です。
というのも、出題する先生の側は、基本的には自分の関心に沿った問題しか作らないからです。笑
なので、その先生の主著と目されるものと、最新の論文、これだけは少なくとも読んでおくべきだと言えるでしょう。
おそらく、その作業を進めていくと、先生が所属する学会がどんなことをやっているのか、研究テーマはこの学会で合っているのかなどが、徐々に見えてくると思います。
そこまで見えてきたら勉強がかなり進んでいる証です。
そしてこれら筆記試験が終わると、次に待っているのは面接です。
面接では研究テーマや志望動機を聞かれますが、もっとも大事なことは、論理的に落ち着いて話すことです。
変に緊張すると受け答えがしどろもどろになって印象が悪くなり、逆に早口でまくし立てて自分の主義主張を語っても印象が悪くなります。自分は優秀であるということをアピールするのではなく、自分がこの研究をこの大学院で行うだけの理由があるのだということを説明しましょう。
面接において最も大切なことは、「なぜ自分はこの大学院のこのコースでなければならないのか」「なぜ自分はこの研究テーマを選んだのか」などを、論理的に落ち着いて伝えることです。
そのためのイメージトレーニングさえ行っていれば、かならず面接には通ります。
そうすれば、晴れてあなたは大学院生!というわけです。
とはいえ、大学院にはさまざまに種類があり、その数だけ、独自の院試があります。
まずは自分が受けたいと思う大学院を選んで、その過去の問題があれば取り寄せること。
その問題が自分の興味関心に近ければ、それはあなたが受験すべき大学院です。
ここまで書いてきてなんですが、結局最後に重要なのは、研究に対する情熱を持っているかどうかです。
情熱があれば、英語論文は日頃から読んでいるし、専門分野の勉強も欠かさないし、自分の研究について考え抜いて論理的に説明することもできるはずです。
自分のやりたい研究を思い切りやる。
そのための大学院なのですから。
この記事が院試対策の参考になれば幸いです。
それでは。
【シリーズ】ジャック・ランシエール(2)知性の平等に基づく教育――『無知な教師』
ランシエールが1987年に刊行した『無知な教師』は、日本語では2011年に翻訳書が刊行されました。
無知な教師〈新装版〉 知性の解放について (叢書・ウニベルシタス 959) [ ジャック・ランシエール ] 価格:2,970円 |
前回も述べたように、ランシエールの問題意識の根本には、「平等」をめぐる思考があります。
本書も、教育を主題にしたものですが、「平等」というテーマが通奏低音として響いています。
本書が主題にしているのは、19世紀に活躍したジョセフ・ジャコトという教育者の哲学です。
この人物が教育において重視したのが、『プロレタリアの夜』でもみられるように、「平等」であり「解放」でした。
この時に「平等」と考えられているのは、「知性の平等」です。ジャコトが書いた著作を読むランシエール自身の言葉を引用しましょう(ページ数は日本語訳のものです)。
「ジャコトにとって問題だったのは、解放することだった。すなわち民衆階級のどんな人間も、自分の人間としての尊厳を思い描き、自分の知的能力を見定め、それをどう使うか決定できるようにすることだった」(26頁)
(ジャコトが言う「普遍的教育」とは)「何事かを学び、そこに他のあらゆる物事を、すべての人間は平等な知性を持っているという原則に基づいて関連させる、というものだった」(27頁)
この記述の背景になることを述べておきますと、いわゆる近代教育の前提は、知性の優れた者が、知性の劣る者に何事かを教えるという「啓蒙」の考え方でした。
学問の世界で「教師‐生徒関係」は、そうした近代教育を指す悪口としては常套句なのですが(笑)、ジャコトを読むランシエールも同様の指摘をしています。
そこで、教師も生徒も、あらゆる人の知性は平等であるという原則から教育を考えていこうというのが、『無知な教師』に込められた主題です。
実はこの本の中で、ランシエールはソクラテスを批判しています。
ソクラテスの問答法(産婆術)といえば、教育学の教科書でも最初に出てくる、いわゆる「教師」や「教育」のモデルとして知られているものですが、ランシエールはこう言っています。
「一見普遍的教育に非常に近いようにみえるソクラテス式学習・教育法が、最も恐るべき愚鈍化を体現しているのである。生徒を彼自身の知へ導くと主張するソクラテス式問答法は、実は調馬教師の手法である」(89頁)
知を有している教師に従うこと、それは「愚鈍化」と呼ばれる近代教育のロジックと変わりありません。
たしかにプラトンの著作を読んでいると、対話の流れをつかんでいるのはソクラテスだけであって、対話者はたいがい「そのとおりだ」「私はそう思う」「それは間違っていないように思う」など、相槌を打っているだけのように見えますよね。
ジャコトを読むランシエールは、そういう知性の働かせ方を「愚鈍化」と呼び、それを「解放」と対置します。
つまり、知性を解放するとは、何らかの知に追従するような在り方とは異なる、別の知性の働かせ方なのです。
そしてさらに重要なのは、知性の解放は万人にとって可能なことであるという点です。
「知性とは、相手の確認を通して自らを理解せしめる力なのである。そしてただ平等な者のみが平等な者を理解する。平等と知性は、理性と意志がそうであるのとまったく同じように、同義語なのだ。すべての人間の知的能力を根拠づけるこの同義性はまた、社会一般を可能にする同義性でもある。知性の平等は人類の共通の絆であり、人間社会が存在するための必要十分条件なのである」(110頁)
ジャコトが知性の平等を前提としているのは、実は彼自身が「無知な教師」だからです。
ジャコトはフランス人なのですが、この時彼はオランダ人の学生にフランス語を教えることに取り組んでいました。
しかしジャコトはオランダ語が話せません。つまりフランス語をオランダ人に教えるための手段がなかったのです。
そこで彼は、フランス語とオランダ語の対訳を載せたテクストを教科書として選び、それを学生にひたすら復唱させ、暗記させるという教育を行いました。
すると学生は、単語の一つ一つに注意を向けることができ、フランス語の単語を習得し、文法をも習得したわけです。
これは教師の知性に生徒が従ったのではなく、テクストに書かれていることに学生が注意を向け、知性を解放させたからこそ可能になった学習です。
そして大切なことは、これが語学の学習だけでなく、あらゆる学問の学習・創作活動の基本的な原則になりうるということを、ジャコトが示したことでした。
まあよく考えると、私たちも教師から押し付けられて勉強したことよりも、自分から意欲的に勉強したことの方が、知識として身につきますよね。好きこそものの上手なれ、です。
ランシエールが言いたいのは、そういった知性の解放の仕方が、「普遍的教育」として、近代的な教育に対する考え方のアンチテーゼになるのだということです。
ここまで見てくると、『無知な教師』のテーマが『プロレタリアの夜』と重なって見えますよね。
たとえ注意力に差があろうとも、私たちの知性は平等である。
この前提に従って教育を営むことが、知性の愚鈍化に抗する解放の論理なのです。
ランシエール自身の著作にあたると、さらなる発見があるかもしれません。
無知な教師〈新装版〉 知性の解放について (叢書・ウニベルシタス 959) [ ジャック・ランシエール ] 価格:2,970円 |
この記事を通して、読者の方の「知性の解放」が起こってくれれば幸いです。
それでは。
【シリーズ】ジャック・ランシエール(1)労働者であり哲学者であれ――『プロレタリアの夜』
今回はランシエールシリーズの第1回です。
取り上げる著作は『プロレタリアの夜』です。
とはいえ、この本はまだ日本語に訳されていません。
なので私もフランス語原典を少し読んだり、英語の翻訳で読んだりしただけなので、今回は軽い紹介になると思います。
この本は、19世紀の「平民哲学者」であるゴニという人物を研究した著作です。
表題にもありますが、プロレタリアというのは労働者のことで、この本のテーマは労働者が昼間ではなく夜に何をしていたかということが主題です。
この著作の中に、「労働者であり哲学者であれ」という文章が出てくるのですが、これはまさに「昼間は労働者であり夜は哲学者であれ」といった意味で理解することができます。
主張はいたって分かりやすく、たとえ昼間は労働者であっても、ひとは時間を作り、夜には哲学することができるし、詩を作ることもできるということです。
哲学や詩作は決してブルジョワのためのものではなく、労働者にも開かれたものだ。
ここには、続いてのランシエールの著作『無知な教師』における、「知性の平等」という概念の背景をなす議論が顔をのぞかせていますね。
早くこの本が日本語訳されるのを願うばかりです。
今でいうところの「在野の哲学者」は、時代や国に関係なく、いたるところにいるわけです。
今自分が置かれている状況に限界を感じ、生まれた階級に縛り付けられた生き方に苦しんでいるひとでも、哲学をし、詩を作り、労働者と哲学者の二つを両立することができるのだ。
この本の主張は現代でも響くものだと思います。
自分に限界を作らず、新しいことにチャレンジすること。
それを「自分には無理だ」と決めつけないこと。
実はその限界は社会の構造のせいで、自分とは関係ない理由で作られているのかもしれないと疑うこと。
これは大事な心構えだと思います。
ただ、少し気を付けたいのは、これはフランス社会学のいわゆる「再生産理論」のことを意味していないということです。
再生産理論は、例えばピエール・ブルデューが論じたものですが、要するに貧困家庭に生まれた子供も貧困になり、富裕家庭に生まれた子供は富裕層になるという、そういう意味での「再生産」が行われるという社会学的な議論です。
ランシエールは、『哲学者とその貧者たち』という本の中で、そういった議論をしているブルデューを批判しています。
哲学者とその貧者たち (革命のアルケオロジー 8) [ ジャック・ランシエール ] 価格:4,400円 |
なぜなら、そうして「貧困/富裕」を前提に議論していること自体に、すでに問題があるからです。
再生産理論の論者たちは、そうした階級差があることを前提にしている。だから結局のところ「平等」は現実にならない。不平等を前提にした議論は、イデオロギーにはなりうるが、現状を観察しているだけではだめだというロジックです。
こうした「平等」に関する考え方は、その後のランシエールの思想を貫く重要な要素だと私は考えています。しばしばこの点を突っ込まれ、平等を重視するあまり「自由」が見落とされているとも批判される彼ですが、しかしそうだからといって平等の議論が否定されるわけではないでしょう。何と言っても希望があるように思います。
さて、今回は最初期のランシエールの議論を紹介しました。
この流れでいうと、次に取り上げるべきは『無知な教師』ということになるでしょう。
すでに教育哲学の分野ではかなり注目されているこの本、実は『プロレタリアの夜』や『哲学者とその貧者たち』との関連で読まれるべき本だと思います。
それでは次回をお楽しみに。