研究日和

とある大学で研究している大学院生です。日々の研究の話、読んだ本の話などをつらつらと書いています。

【シリーズ】ジャック・ランシエール(0)

こんにちは。

 

今回は、ちょっとした予告をします。

 

タイトルにもあるように、これから数回にわたって、現代フランスの哲学者であるジャック・ランシエール(Jacques Rancière)に関するブログを書こうかなと思いつきました。

 

ちょっとした機会がありまして、ランシエールの著作(日本語訳されたものがほとんどですが)をほぼすべて読んだことがありまして、その時に考えたり思ったりしたことをここでまとめてみたいと思ったので。

 

まずはネット上でも拾えるような基本的な情報を整理しましょう。

 

ジャック・ランシエールは、1940年にアルジェリアで生まれました。

 

フランスの高等師範学校で哲学を学び、1965年にルイ・アルチュセールやエティエンヌ・バリバールらと『資本論を読む』という論集を発表しました。

この本は日本でも、ちくま学芸文庫に収録されたものです。

資本論を読む【中古】

価格:6,980円
(2019/11/24 13:49時点)
感想(0件)

60年代フランスにおけるアルチュセールの影響力はすさまじく、しかもフランス共産党のイデオローグでもあったわけですから、彼の政治的発言力は思想界隈でもまれにみるものでした。

 

さて、そんな師匠を持つランシエールでしたが、1974年に出版した最初の単著である『アルチュセールの教え』という本で、その師匠を痛烈に批判します(詳しくは次回のブログで)。

 

そうしてやがて師匠から距離を置き始め、発表した研究成果として、『プロレタリアの夜』や『無知な教師』があります。

 

このあたりの著作を読むと、伝統的な、例えば「ドイツ観念論」やら「イギリス経験主義」やらには与しない、今どきの言い方では「在野の哲学者」に焦点を当てていることが特徴だと言えます。

 

おそらく権威主義的なものが嫌いな人なんでしょうね。師匠に背いたのもそこに理由があるような気がします。

 

さて、ランシエールはその後、美学や政治に関する著作を多く刊行しますし、今でも刊行しているのですが、ここで「美学」や「政治」は別々に論じられているわけではなく、それぞれ関連しています。

 

詳しくは別の機会を設けますが、「美学」を意味するaestheticsは、ギリシア語の「アイステーシス」が語源なのですが、これはひとの感覚に関するものを意味します。

 

有名なのは、カントが『判断力批判』において、美学とは「感性の学」であると述べたように、美学というのはひとの感性に関する学問のことです。

 

そのため、感性に触れる「芸術」が主題になるのは自然なことだと思います。

 

そしてこの芸術や美学が「政治」に関わるのは、例えばヴァルター・ベンヤミンの有名な「政治の美学化」「美学の政治化」や、ハンナ・アーレントの『カント政治哲学講義』における共通感覚論が政治論として語られる文脈があります。

 

おそらくはこうした文脈上で、ランシエールも美学と政治の問題を考えているのではないかと思うのです。

 

 

さてさて、書いているとキリがなく、おそらく長くなってしまうため、ランシエールについてはシリーズ化して細々と続けていこうかなと思っています。

 

今のところ考えているのは、

(1)労働者であり哲学者であれ――『プロレタリアの夜』

(2)知性の平等という仮説に基づく教育――『無知な教師』

(3)知性の平等と観客としての市民――『解放された観客』

(4)感性と政治――『不和あるいは了解なき了解』

(5)民主主義への憎悪への憎悪――『民主主義への憎悪』

(6)ランシエールフローベール――『言葉の肉』および『平等の方法』

といった内容を考えています。

 

もしかしたら増えるかもしれませんし、削るかもしれませんので、その点はご了承ください。

 

それでは、次回以降をお楽しみに。

 

本を買い続けることの意味

こんにちは。

 

本を買うことの意味って何でしょう?

 

私は研究者の端くれとして、少ない収入のなか、毎月1万円~2万円ほどは書籍を購入するようにしています。

 

そりゃ、この業界にいれば知識=仕事道具ですから、本を買って読むのはほぼイコールで仕事なんですよね。

 

ちなみに11月に買った本は、オックスフォード大学出版から出ているクラシカル・テクストシリーズの、アリストテレス『自然学』と『デ・アニマ』(これはギリシア語の原典です)、それと『ハイデガーレーヴィット往復書簡』を購入しました。

 

まあ、こういう本は研究にも使う本なので、先行投資という意味で自腹を切る必要があるものです。

 

また、別に買わなくても目だけは通したいという本は図書館で借り、研究に使うであろう重要な本は購入するというのが私の書籍購入の線引きです。

 

たぶん、そのうち全集ばかり揃えて単行本は研究対象のものしか買わなくなると思うんですよね。ちなみにいま欲しいのは、木村素衞著作集、戸坂潤全集、あとはプラトンアリストテレスのクラシカル・テクストですかね。

 

そうなると研究費として出費している額もばかになりません。ああ、一年に20万円でいいから研究費が欲しい…。

 

それだけお金がなくても本を買い続けるのは、それが先行投資になるからです。

 

知識は何事にも代えられません。本を買ってお金が無くなったら飯を抜けばいいだけです。

 

それだけ、文字通り「死ぬ気で」勉強し読書し知識を持つことが、研究の世界でやっていくためには必要なのですが、最近はあまりそういう気概のある院生も少なくなったような気がします。自分の研究対象ばかり読んでいて、「ゴキブリ亭主」みたいに…

 

研究者はどこかオタク気質があるので、本来なら「あれもこれも」と知識を揃えていきたい人種のはずなのですが、「あれかこれか」で特定の対象しか読まないという院生もいますよ。

 

そんなに食わず嫌いしていたら「博学」なんて遠い目標だと思うのですが、そういう人は気にせず、あくまで自分が関わっていることにだけ詳しくなればいいという発想のようです。

 

まあ、そういう人がどれほどのレベルの人になるかというのは、後々で差が出てきたときにわかるのですが。(ちなみにこれは院生だけでなく中堅の研究者にも言えるような気がします。自分が知っていることだけで満足して、既有の知識だけで自己正当化するような人も少なくありません。)

 

そうならないためにも、本を買い続け、読み続け、常に知識を吸収する必要があるのです。

 

 

ああ!また愚痴っぽくなってしまった…

 

そろそろ生産的なブログも書いていきますね、本の感想とか…

 

それではまた。

ポピュリズム論の二面性、あるいは政治と芸術の緊張関係について――シャンタル・ムフ『左派ポピュリズムのために』

こんにちは。

 

今回は昨今話題のポピュリズムについて、現代政治思想の重要人物の一人、シャンタル・ムフの『左派ポピュリズムのために』を紹介します。

 

ムフといえば、パートナーのエルンスト・ラクラウとの共著『民主主義の革命』(原題はHegemony and Socialist Strategy で、直訳すれば『ヘゲモニー社会主義戦略』といったところです)によって広く知られる政治哲学者です。

 

彼女の思想は「闘技民主主義」と呼ばれていて、なにやら不穏な予感がしますが…

 

というのも、従来の政治哲学といえば、理性的な対話や討議によって、ある一定の合意(コンセンサス)を得ることが政治の役割であるといったような、いわゆる「熟議民主主義」という立場がほとんどでした。

 

代表的なところでは、ユルゲン・ハーバーマスがそれに近いところにいます。

 

ところがムフによると、熟議民主主義では見落とされるものがある。それが政治における「情念」の役割である。

 

結構、「熟議vs.闘技」「理性vs.情念」という図式は分かりやすいし便利なのですが、まあこのあたりの文献を読んでいくと、そう簡単に割り切れるものではないような気がしますね。でも今回はそれはおきます。

 

そんなムフですが、本書では「左派ポピュリズム」というものに焦点を当てています。

 

ポピュリズムというテーマはラクラウがずっと取り組んでいたもので、だから彼女がそれについての本を出すこと自体は必然だったのでしょう。

 

この本の解説に、きわめて明瞭に左派ポピュリズムとは何かが説明されています。

 

「左派ポピュリズムとは、新自由主義的なヘゲモニー編成のなかで、制度からこぼれ落ち、あるいは資本によるむき出しの暴力によって傷つけられた人々――いまや社会の圧倒的多数があてはまるだろう――が、制度外の闘争から制度内へと政治的介入を行う戦略なのだ。この介入がめざすのは、権力の掌握ではない。そうではなく、国家の政治的、社会―経済的役割の回復と深化、そしてそれらを実現するための民主的な国家運営こそが重要なのだ。」(139頁)

 

とはいってもよくわからん!とも感じるので、少し補ってみたいと思います。

 

まず「新自由主義的なヘゲモニー編成」というやつですが、まずはラクラウとムフの共著『民主主義の革命』の話から始めましょう。

 

『民主主義の革命』は、原著が1985年に出版されたのですが、これが執筆された背景について、ムフは『左派ポピュリズムのために』のなかで次のように述べています。

 

「『民主主義の革命』は、ケインズ主義的福祉国家をめぐり、労働党と保守党による戦後コンセンサスが危機に陥るなか、ロンドンで執筆された。そして、私たちが左派政治の未来についての省察を発展させたのは、おもにこのイギリスのコンテクストにおいてであった。」(42頁)

 

1985年のイギリスでピンと来る方もいると思うのですが、ここではまさに「サッチャリズム」と呼ばれる、サッチャーによる新自由主義的な政策が念頭にあります。

 

ラクラウとムフはこうしたイギリスの新自由主義的な政策を背景に、それに対抗するために『民主主義の革命』を執筆したわけです。

 

この問題意識は、それから30年経ったムフにとっては、「左派」の戦略をいかに構築するか、という問題意識につながっており、それが左派ポピュリズムという概念に展開したわけです。

 

まあ簡単にいえば、経済領域の主義(資本主義)の論理からはどうしても排除されてしまう人々、具体的にいえば、生活保護世帯、ホームレス、難民、移民、その他、多くの社会から排除された人々が、互いの差異を保持しつつも政治的に連帯する可能性を、ムフは「左派ポピュリズム」という概念に託しているわけです。

 

でも、生活保護世帯とホームレスとでは、位相が違っていて、一見すると連帯の可能性はないように見えるかもしれません。

 

しかしムフが重視しているのは、そうした「差異の論理」は保持しつつ、それらが「等価性の論理」によって節合される可能性です。

 

例えば、生活保護世帯とホームレスとは、一見異なった存在ですが、しかし「経済的に苦しい」「生活がままならない」という要求から、「経済的な格差」が問題であるという意識へ発展し、それが経済資本の「平等」という共通の指標(シニフィアンと呼ばれます)を見出すことができれば、それを中心にして、生活保護世帯とホームレスとは連帯することができるというロジックです。

 

ここで注意しなければならないのは、こうした連帯はあくまで「等価性」を重視する立場であって、差異を抹消し「同一性」を重視する立場ではないという点です。

 

互いに違うところがありつつも、等価性を中心に連帯すること。これが左派ポピュリズムの戦略です。

 

しかしそれはいかにして可能でしょうか?

 

その際に鍵となるのが、言葉・感情・行為です。

 

「「言説的実践」とは、発話と書き言葉にのみかかわる実践を意味しているのではない。「言説的実践」とは、そこにおいて意味作用と行為を、言語的要因と情動的要因を区別することができない、そうした意味づけの実践を指しているのだ。言葉、感情、そして行為をともなう言説的/情動的な意味づけの実践のなかではじめて、社会的行為者は主体性の形式を獲得するのである。」(99頁)

 

私たちが左派ポピュリズムのもとで連帯し実践する際には、言葉、感情、行為をともなう言説的・情動的な意味づけの実践が重要である、とムフは述べています。

 

ここが「闘技民主主義」のムフの本領というところですが、このように情念を重視する立場は、従来の理性を重視する政治哲学の立場からは一線を画するものです。

 

そしてムフは、このように情念に訴えかける政治の可能性を、「芸術」に見ています。

 

「「常識」をある言説的接合の結果とみることで、対抗ヘゲモニー的な介入が「常識」をどれほど変容させるのかを理解できる。私は『闘技学』のなかで、ヘゲモニー闘争においては、芸術的かつ文化的な実践がいかに重要な役割を果たすのかを強調した。そして、もし芸術的な実践が、主体性の新しい形式を構成するにあたり決定的な役割を果たすことができるとすれば、それは、感情的な反応を引き起こす様々な資源を使いながら、情動的な次元で人間をつかまえることができるからである。」(103-104頁)

 

言われてみれば、「芸術」というのは「常識」を打ち砕いて、何か新しい物の見方を提示してくれるような気がしますね。

 

ムフは芸術にこそ、人間の感情や情念に訴えかけ、人々を主体化する可能性を見ているのです。

 

 

もちろんこれまでも「政治と芸術」というテーマ自体は、ヴァルター・ベンヤミンの「政治の美学化」「美学の政治化」という概念に端を発し、様々に論じられてきました。

(例えば田中純『政治の美学』はこのテーマを扱った良書です)

政治の美学 権力と表象 [ 田中純(思想史学) ]

価格:5,500円
(2019/11/18 17:59時点)
感想(0件)

ナチスが大衆を動員するために映画を用いた宣伝活動をしていたことは、政治と美学、政治と芸術の問題の複雑さを示しています。

 

その観点から見ると、ムフの「芸術」への期待は、ポピュリズム論が抱える二面性を象徴しているように思えます。

 

ポピュリズムはやはり、一方では左派のロジックになりますが、他方では容易に右派のロジックに変容し、排外主義などを招きかねないという二面性ですね。

 

もちろんムフもこの問題を考慮していると思うのですが、『左派ポピュリズムのために』のなかで納得のいく議論は見つけられませんでした。

 

まだご存命の思想家ですので、これからの出版物・発言に注視すべき人物ではないでしょうか。

 

 

『左派ポピュリズムのために』はこちらから↓

左派ポピュリズムのために [ シャンタル・ムフ ]

価格:2,640円
(2019/11/18 18:06時点)
感想(0件)

それではまた。

映画と政治――岡田温司『アガンベンの身振り』

こんにちは。

 

今日は岡田温司先生の『アガンベンの身振り』という本の紹介をしたいと思います。

 

岡田先生は、京都大学の先生で、専門は西洋美術史

御著書の多くも美学関係のものが多く、岩波新書の『デスマスク』など非常に興味深い本をものしている方です。

 

そんな岡田先生は、アガンベンの研究者としても有名です。

 

ジョルジョ・アガンベンは、現代思想をリードするイタリアの思想家ですが、彼の思想は哲学から美学、政治哲学など、多彩な領域を縦横無尽に語るところに特徴があります。

 

もちろん現在も注目されていますが、一昔前、「生政治」というキーワードが話題になった際に、フーコーアーレントと並んでアガンベンが注目されたような印象があります。

 

特に金森修先生の『〈生政治〉の哲学』という本で論じられたのが大きかったような気がします。 

〈生政治〉の哲学 [ 金森修 ]

価格:3,850円
(2019/11/17 18:35時点)
感想(0件)

そんなアガンベンに関する論稿を集めて出版されたのが、『アガンベンの身振り』という本です。

 

ここでいう「身振りgesti」というのは、本書でも「生政治」と関わりあうものとして考えられています。

 

アガンベンはあるところで映画について論じていて(現代思想家が映画について考えるのは結構普通のことです。例えばジル・ドゥルーズやジャック・ランシエールの映画論が有名です)、その中で「人間とは映画を見に行く動物のことである」と言っているそうです。

 

さてアガンベンによると、映画は登場人物の「身振り」によって理解することができる。

 

アガンベンはどうやら、現代のことを「身振りを失った時代」と捉えているようです。

身振りを失うとは、生政治の言説に巻き込まれてしまい、身動きが取れなくなった時代のこと。

つまり私たちは、「私たちの生を支配し管理する政治」によって、行動を制限され、身動きが取れなくなっている。

 

このことはフーコーも同様のことを論じているのですが、まあ、現代思想界ではよくある権力分析、言説分析とでもいえるのですが、アガンベンはこれを映画の身振りと重ねながら論じているわけです。

 

岡田先生によると、

「一方で、生政治の装置によって人間の身振りが解体され脱身体化されるようになるのと、他方で、初期映画がとりわけ俳優の身振りや身体にカメラを向けて記録するようになるのとは、ちょうど表裏一体の関係で結びついている、というわけである。」(144頁)

 

つまり、私たちが身振りを失うのと並行して、映画というものも俳優の身振り・身体にフォーカスを合わせるようになった。それは偶然ではなく必然であったというわけです。

 

まあ、「初期映画」と言われているように、当時は音声なしのモノクロ映画ですから、俳優の身振りに頼らざるを得ないのは仕方ないことですが…。

 

しかし、こうした映画の表象と政治(生政治)とを結びつけるという発想は独特ですよね。

 

このあたりは現代思想の面目躍如といったところでしょうか。

 

本書は岡田先生のアガンベン論集ですが、美学の専門家の観点から書かれたアガンベン論であるという点で、哲学や政治学の専門家によるそれとは一味違う、アガンベンの論じていることの射程を広くとらえたものとなっているような気がします。

 

(私は普段、哲学分野や政治学分野のアガンベン論には物足りなさを覚えているので、これくらいの論稿があるとアガンベン理解にとって非常に役立つと思います。)

 

新書サイズの本ですので、よければ手に取ってみてくださいね。

アガンベンの身振り (シリーズ〈哲学への扉〉) [ 岡田温司 ]

価格:1,650円
(2019/11/17 18:57時点)
感想(0件)

それではまた。

 

文系大学院生の蔵書の話

こんにちは。

 

今日は文系大学院生が持っている本の話です。

 

文系にもいろいろな種類がありまして、特に私が属している研究領域は、大きく分けて哲学系と歴史系があります。

 

歴史系の研究は、書籍よりも雑誌の記事や史料が重要な一次文献になりますので、あまり書籍にはお金をかけていないそうです。歴史研究の友達曰く。

 

私はどちらかといえば哲学系なので、必然、蔵書数が多くなります。

 

哲学を勉強するにも、実はどの哲学者もプラトンアリストテレスなどの古代哲学はもちろん、中世から近代にかけての哲学者・思想家は押さえなければ理解することもできないので、どんどん読むべき本が増えていきます。

 

そのように芋づる式に読んでいくと、やがて部屋の本棚が埋まり、一つまた一つと本棚代わりのカラーボックスが増えていく…というのが実情です。

 

僕は今のところ、大きな本棚が一つと、カラーボックス三つ分の蔵書があります。

 

数は数えたことはないのですが、だいたい500冊は超えているのではないかと思います。

 

見当もついていないので、実際のところは分かりませんが…

 

まあ、大切なことは蔵書数こそ文系大学院生にとってはステータスであるということです。

 

例えば、岩波文庫という必読書が文庫本になっている素晴らしい文庫があるのですが、その青色のものは相当な数がありますね。少なくともプラトンアリストテレスのものはすべて所有していたはずです。

 

その他にも、今はネットで古本を安く購入できる時代ですので、安く買った全集なども置いています。この前は西田幾多郎全集(全19巻)を購入したりしました。

 

でも、そんなに本を買うお金なんかあるの?と思われるかもしれません。

 

しかし、これは私の学部生の時の先生がおっしゃっていたことですが、例えば1000円の新書を買ったなら、夜ご飯を2日抜けばいいだけのことなのです。

 

要するに、書籍を買うお金は惜しまずに、生活費を削っていくという考え方ですね。

 

食べ物を買うか、知識を買うか。つねにその二者択一に迫られていると、知識がいかに大切なものかわかります。

 

もちろん、お金の大切さも。笑

 

私は残念ながら、いわゆる「学振」には通っていませんので、生活費も書籍代も、つまりは研究のための費用も、すべて自腹でまかなっています。

 

学振についてもいずれ書くつもりですが、とにかく貧乏でありながら知識を豊かにするにはどうすればよいか、ということを日々考えています。

 

そんなにお金がないなら図書館で借りればよいのでは?という方もいるかもしれません。

 

もちろん、図書館は利用しています。しかし図書館に入っている本は大概専門性に欠けていますし、私が研究のために必要となる本はほとんど置いていないのです。

 

特に洋書がそうですね。

 

専門的な洋書を買ったことがある方は分かると思いますが、とにかく高い!

 

ペーパーバックでも1万円超えているものなど普通にあります。

 

そういうものは自腹では買えませんので、図書館に購入依頼を出したりして手に入れるようにはしていますが、限界はあります。

 

本当に、院生ひとりひとりに研究費を出してほしいものです。

 

 

とまあ、蔵書の話から愚痴になってしまいました。汗

 

それでも日々頑張って研究しているのが、学振に通っていない院生の実際のところなのです。

 

少しでも院生の待遇がよくなることを期待しています。バイト漬けでは研究どころではませんからね。

 

 

それではまた。

 

 

キルギス戦

こんにちは。

 

さきほどサッカーの日本対キルギスが終わりましたね!

 

まずは勝ててよかったです。

 

アウェーでしっかり勝てたのは素晴らしいですよね!

 

ちなみに僕は中高ではサッカー部だったんですが、その時の先輩が今の日本代表のメンバーに入っているんです。

 

本当に感慨深いなあ…

 

 

今日の試合、PKとFKでの得点とはいえ、流れの中でチャンスも作れていたので攻撃はよかったのですが、守備は時々崩されていましたね。

 

失点しなかったことは評価できますが、修正点は多そうです。

 

 

ああ!今日は研究のことではなくサッカーのことを書きましたが、ちゃんと今日も研究していましたよ。

 

今度は読書ノート的に、ある本のコメントをしたいと思います。

 

それでは。

 

ニーチェの本のタイトルについて

こんにちは。とある文系大学院生です。

 

今回はニーチェのことでも書こうかなと。

 

あまりニーチェ自身の哲学には詳しくないのですが、研究者の間では常識のことでも、こんなブログで紹介してみるのも面白いかも、と思った次第です。

 

フリードリッヒ・ニーチェ

 

最初は古代ギリシア悲劇の研究者としてキャリアをスタートさせました。

 

悲劇の誕生』という本ですね。

 

ニーチェといえば「名言集」というくらい、ザ・哲学者というイメージの方も多いと思いますが、もともとは歴史家だったんですね。

 

そうした古代ギリシア悲劇の研究を経た彼が、古代ギリシア哲学に詳しかったのは言うまでもないでしょう。

 

まあそんな前置きは実は関係なくて。

 

ニーチェは1882年にある本を出しました。

日本語では『悦ばしき知識』というタイトルで知られているものです。

 

この本、中身は壮大なアフォリズム集で、体系的ではないのですが、実は一つ一つのつながりがあるような気もする、ニーチェらしい著作です。

 

しかしこの本、日本語では様々なタイトルがつけられています。

 

『悦ばしき知識』もそうですが、他にも『喜ばしき知恵』(村井則夫訳、河出書房)、『愉しい学問』(森一郎訳、講談社)なんてタイトルの翻訳書もあります。

 

なんでこんなにたくさんの翻訳があるのでしょう?

 

その理由は原題の Die fröhliche Wissenschaft にあります。

 

fröhlich はドイツ語で「楽しい、愉快な」といった意味で、Wissenschaftは「知識、学問、知」を意味する多義的な言葉です。

 

その意味では、タイトルのつけ方で翻訳者の哲学がにじみでると言っても過言ではないでしょう。

 

森一郎先生の『愉しい学問』など良いタイトルではないでしょうか。

学問はやはり愉しくなくては。

愉快であってこそ学問にのめりこむことができるのですから。

 

まあこれが人文科学においてはとても大事なことで、ドイツ語で書かれた哲学書を日本語で翻訳するときにも哲学が働くのです。

 

ドイツの文脈と日本の文脈が違う上に、ドイツ語の単語の意味の豊饒さを考えると、それをひとつの日本語に変換する難しさが理解されると思います。

 

ここが人文系の難しいところであり、楽しいところでもあるのです。

まさに「たのしい学問」といったところではないでしょうか。

 

 

今回はニーチェについて書いてみました。

『悦ばしき学問』自体、とても面白い本だと思います。

ぜひ手に取ってみてはいかがでしょうか。

 

森一郎訳『愉しい学問』

愉しい学問 (講談社学術文庫) [ フリードリヒ・ニーチェ ]

 

村井則夫訳『喜ばしき知恵』

喜ばしき知恵 (河出文庫) [ フリードリヒ・ニーチェ ]

 

 

 

それではまた。